くだらない人間が語る幸せになる方法

くだらない人間が語る幸せになる方法

現状への強引な感謝

感謝教と揶揄されたりすることもあるが・・・一部の自己啓発やスピリチュアルの手法ではまず初めに感謝しようということを勧めている。現状に不満があるような人も、常に感謝感謝、全てにありがとうありがとうと思いながら過ごせという方法だ。

 

それが完全に悪いとはいわないが、私は、感謝というのは基本的に自然と心から染み出てくるようなものでいいのではないかと思う。むしろ感謝するという状態になれないから、その人は悩んでいるのではないのだろうか。

無理な感謝、強引な感謝というのは、臭いものにフタ手法であると思う。

 

ポジティブに行こう!とやたらいう人がいるが、自分の中に起こるネガティブな感情をなかったことにすることは、もはやポジティブではない。

また、自分の中のネガティブ要素を敵と見立て、攻撃阻害するようなことも、自分を味方につけることができない手法であり、よい結果にはならない。

 

イソップ寓話にある北風と太陽の、太陽のように、旅人が自らコートを脱ぎたくなるようなことや、唄を忘れたかなりあのように象牙の舟に銀の櫂でもって月夜の海にうかべてあげるようなことでなくてはならない。人が芯から救われるにはメッキではどうしようもない。

 

感謝は与えられてから生じる。自分が与えられていないと思っているところに、自然な感謝は生じない。強引な感謝もただ意味がないだけならよいが、自分の中にある感情に蓋をするようなことであり、それは心の問題をこじらせる。

 

願いは洗練される

今いる環境を一番幸せだと思え、そうすれば不幸だとは思わなくなる。という考えもある。しかし、理不尽な嫌がらせ、いじめを受け職を失い、住む場所もなく食べるものもないような状況なら、それで本当に心から幸せだと思うのはなかなかに難しい。もし衣食住を満たす最低限のお金もないなら、まずはそのお金を得ることを願うことは必要な事だと思う。

 

しかし一方で、もしあなたが裕福ではなくても人並みな生活ができているなら、例えば「引き寄せの法則」などで大金を得ることを願い、実際にそれが叶ったとしても、幸せではないと感じることがある。本当に欲しいものはそれではないという場合がある。

 

幸せということの一つの条件は心が満たされていることではないかと思う。心が満たされていなければ、物欲を満たすことでそれを満たそうとするかもしれない。しかしそれは本当に望んでいるものではなくかりそめのものだ。本当に何を自分が欲しているのか、何が足らないと思っているのか、素直な気持ちになって考えてみることはとても有益だと思う。(PTSDや幼少期にとても辛い経験をした方は注意が必要な場合もある。)

 

不満があるということは心に傷を負っているサインだと考えることができる。そういう自分を責めたり、強引に「ありがとう」などと言ってみるのではなく、傷を癒すことが必要だ。臭いものに蓋、ではいつまでも何も変わらない。

愛されるべき

どんな人間も愛されるべきで、特に乳幼児期における母親、もしくはそれに代わる人間からの愛情というのは必然のものだ。それは人以外の動物にも言えることだが、人間にとっては特に重要な事だと思う。

誤解している人も多いが、乳幼児期のかかわりというのは、その子の一生にかかわるほどの影響力を持つ。死ぬまでその影響を引きずり苦しむ人間はとても多いのだ。

しかし、だからといって、母親の責任というような問題でもなく、外部の助言に従ってとか、良かれと思ってしたことが裏目に出てしまうことも多い。そもそも子育てというのは完璧を目指すようなことは難しい。親の育児によるあまりよくない影響を、ほんの少しも受けていないという人は少ないのではないだろうか。しかし、そうした影響があまりにその子の人生の足を引っ張っているのなら問題だ。

この問題は自己肯定感の形成とか、愛着の形成、というような発達段階の躓きに起因する。これらは本当に人生を左右する問題となる。

 

愛着障害について知りたい方は、岡田尊司氏の著書「愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)」等を読んでいただけたらよいかと思う。

 

 

幸せになる権利

どんな人や動物も幸せになる権利がある。たとえ犯罪人でもそれは変わらない。もちろん被害者はいちばんに救われなければならない。しかし加害者というものは、多くの場合被害者でもある。彼らの多くは恵まれない生い立ちを持つ人間が多い。仮に人目にはわからないようなこと、例えば、物質的には恵まれていても精神的には満たされないものがあったり、親は愛情を注いでいるつもりでもそれがうまくいっていなかったりということもある。そういう人間には成人しても支えてくれる友人等も得にくい。そのような人間が犯罪を犯す前に救いの手が差し伸べられるべきである。犯罪者を一方的に糾弾しても、また次の同じような不幸な犯罪者が出てくるだけで、当然その被害者も同時に生じる。

それでは、それら犯罪者を不幸に追いやった人間、例えば実の親などが悪いのかというとそうではない。その人間もまた被害者であることが多く、突き詰めていくと、その原因は社会にあるということになる。社会というのは皆が作っているものであり、罪人を糾弾している人たちもその構成員であるともいえる。

これは日本人に多いものなのか、諸外国でも同じようなものなのか分からないが、重犯罪を犯した人間には人権などないも同然といわんばかりのTwitter等での叩きが多く見られるが、人間何か間違えばいつ自分が犯罪者にならないとも限らない。また、何も起こさず過ごせてきたのは当人の努力云々という問題ではなく外的要因によるもの、つまりは恵まれているということなのだと思う。

恵まれてこなかった人間は今からでも恵まれるべきである。どんな人間であれ不幸になっていいとか、不幸がふさわしいというようなことはないと私は思う。