くだらない人間が語る幸せになる方法

くだらない人間が語る幸せになる方法

社会の使命

 第一次産業から第三次産業へ、代表的な産業は移り変わっていった。そして今やAIやRPAの導入が進み人の仕事はますます奪われていくと予想される時代となった。

 そんな中で、働き方を改革すべし、や、生き残りたいのなら努力せよ自分を変えよ、それが正しくそうでないものは怠惰であり、どうなってもその人の責任なのだという語調の人も多い。

 優秀な人材であるよう自分を磨けと叫び、うまくできない者はもうこの社会におよびでないのだと言われる。

 そのうまくできない者の中には、もともと大変優秀であったにもかかわらず、「出る杭は叩かれる」「優秀な者に自信を持たせることを良しとしない」ようなことを押し付けられ、自ら優秀さを抑圧し、できない人になってしまった人もいる。

 優秀な学生を見て、「邪見」により謙虚であれと叫び、その将来には、優秀な者以外はいらないという矛盾した社会。

 また、仕事は多少遅くてもまじめで心優しい人のための仕事は今はもう少なくなってきている。逆に、人を蹴落としてものし上がっていくような人間だけが生き残っていく。そしてそんな人も、そうではなくてもなんとか勤めてきている人も精神をボロボロにしながら働いている。

 

 

 そういったことに、ポジティブなイメージを押し付けて、今までの働き方を改善せよといっているように思う。

 そもそも残業問題にしても、上司が残っているから帰れない(そしてその分も給料がつく)という会社がそんなに多いのだろうか。業種からか私が過去勤めたどの会社も、無駄な残業をしている人はいなかったし、無駄に残っていたとしても給料はでなかった。それにだらだら仕事をして残業代を稼ごうという人もいなかった。だが社会全体では残業=無駄な残業、残業=悪とされ、身を粉にして残業した対価さえ支払われないことを正義とする風潮になってきた。

 

 少し横道にそれてしまったが、話を戻すと、これからは多くの職がロボットなどに奪われていくから、食っていきたいなら、これまでの怠惰を改めて、機械でもできるような仕事ではない高度な技術、知識を身につけよ、ということなのだが、

10の努力で100出来る人がいれば、

いくら創意工夫し知恵をしぼりつつでも、100の努力で10しかできない人もいる。(おそらく日本の教育ではその問題は顕著になるだろう。)

 学生時代に自分を磨こうにも、それを阻む障害は実に多く、子供のころからつまづいてしまう人も大勢いる。

 

 本来社会というものの果たすべき使命には、優秀ではない人間もまともに働ける場所を確保するというものがあるはずだった。

 どんな大人の問題があろうと、効率は落ちてもあえてロボットではなく人間を採用するということを、本当はしなけければならない。

 それを忘れて無能な人間を叩いて排除するようになったら、国というものも存続しがたくなるのではないだろうか。

無理解に多用される引き寄せの法則

私がこのブログで語ろうと思っているのは「インナーチャイルドの癒し」など
と言われるものである。

インナーチャイルド、内なる子供。これはスピリチュアル分野の専門用語ではない。もっともハイアーセルフの話までいけばスピリチュアル色が強くなるものだが、嫌いならハイアーセルフなどは考えなくても問題ない。スピ系嫌いの人にも有用な、人にとって根本的な方法なのだ。

インナーチャイルドの話の前に、引き寄せの法則というものについて少し話そうと思う。

引き寄せの法則として紹介されている方法のほとんどは、良い方法ではないように思う。

例えばこのような
・嫌なことがあっても、「ラッキー」「ついてる」を口癖のように唱えよ。怒ったり、愚痴や批判を言ってはいけない
というもの。

嫌なことがあっても、ラッキーなどと思うとか、怒らないというのは、
ここで便宜上「魂(たましい)」とでも言っておくが、この魂の奥底からそう思えるのならば良いかもしれない。
しかし実際にはそれは無理な事なのだ。
これは人間が、自分が嫌な状況では真の力を発揮できない生き物だからだ。

こういうことをしていると、良いことを引き寄せるのではなく、人の脳の奥底にあるかのような魂は「自分はそういう嫌なことをされてもいい人間なんだ」と学習してしまう。

嫌なことがあって当然なのだと魂に刻み込んでしまうのだ。

ここで引き寄せの法則が動くとすると、逆に嫌なことを引き寄せてしまう。
人にされて嫌なことなどは、怒った方がよい。無論、人間関係を保ちたいなら加減はした方がいいだろうが…(怒っているんだと伝わるだけでも充分な場合は多い。)

引き寄せの法則を有効的に働かせるには、自己のベースが整っている=インナーチャイルドが癒されている=自分は幸せになるべく存在であると魂の奥底から確信している、という事がまず必要と言える。

また、前の記事でも触れたが、インナーチャイルドを癒すと心が満たされ、かりそめのもので心や欲を満たそうとする必要がなくなる。

そうなると、引き寄せの法則の、失敗ケースとなるような、本来欲しいものでは無いものを望むということもなくなってくる。

また、インナーチャイルドを癒すと、引き寄せの法則などでわざわざあれこれ望まなくても、自然と自分が幸せな状態を引き寄せているといえる状況になる。

某詐欺師のこと

先日書いた詐欺師のことを、私はこんなひどい人間もいるのかと、本当の悪のように想い、許せないと感じている。

私はあまり人に対してそのような事は思わないほうだ。考えが足りないような行動に対しても、別にそうした配慮に至る根拠となるものを、それまでの人生で得られるかは運のようなもので、自分の努力というより外的要因からのものだと感じる(自分の行動によって得たものであっても)ため、だからその人が悪いというような認識にはならない。

死刑囚を含め犯罪者に対しても、犯罪者とは犯罪者という被害者だという意識があるので、こんな奴死ねばいいとか、死刑になって当然とかはまず思わない。私は死刑反対派だ。もちろん、被害者の方は本当に、救われるべきだと思う。

犯罪を犯しても、それを償おうと頑張って生きているのはすばらしいことだし、極悪人のような人間と全く同じ人生を生きてきたら、どれだけの人が正気でいられるのだろうか。また、それでも自分はそうはならないと言い切れるのなら、それは遺伝子的な要因なのだろうから当人には責任はない。

 犯罪をしても、何か社会に伝えるようにもがいている人もいる。

 

また多くの非人道的な組織であってももう少し秩序くらいはあるものだろうと思う。

 

また、人に迷惑だけはかけてはいけない等言う人もいるが、私は迷惑くらいべつにいいと思っている。というか人に迷惑をかけるべきではないという人も迷惑くらい知らないうちに多少かけているものだ。自分だって人に迷惑くらいかけているんだから、他人の少しくらいの迷惑なんてお互い様だと思っていないと、あの人はどうたらとか言う人間になってしまう。しかし人を不幸にするのは別である。私はいじめは良くないと思っている。いじめられる原因が当人にあったとしても、だからいじめていい理由にはならない。人を好きなだけいじめておいて、たちの悪いいじめばかりしておいて、被害者意識だといって正当化しているのが自称聖人の某詐欺師さんである。

 

どうしてこの人物を許せないとまで言えるのかということは、まだここには公開していない、というかブログや文章では伝えきれないように思うが、私はここまでひどい人間を他に見聞きしたことがなかった。麻原に似ているかとも思うが、私は麻原についてあまり情報を持たないので何とも言えないところがある。

しかし私はこの人物について、死ねばいいと思っているわけではない。そうではなく、正されてほしいと思う。自分の間違い、過ちを認め、被害者の人々に謝罪し償い、まともに生きなおしてくれればと思う。そうすればこれ以上の被害者は出ないだろう。

しかし、私はこの人物が、そういうことが無理な人間だということをこれまで十分に見てきた。

たちの悪い人物で、人に対して「殺す」という脅しも平気でするような人間なので、実名をあげて批判すれば報復行動に出られかねないため、実名は出せずにいるが、この人物によってこれ以上、不幸になる人間、つらい思いをする人間、また洗脳され自由を奪われる人間も出ないでほしいと願っている。

 

今この詐欺師が活動を活発化させ、某掲示板でも自演スレがたてられていたりもしており、よい印象をもってしまう、もしかしていい人かもとか、すばらしい人たちだと誤解してしまう人が増えているので、ここを読んでいる方で思い当たるものがある方は、くれぐれも注意されてほしいと願う。

 

私が被害にあった詐欺師の特徴

こんなのに普通騙されないだろ!と思うと思いますが、いろんな条件がそろってだまされてしまうこともあると思っていただければ、、、実際に社会的地位のある職に就いている人も騙されてたりしました。もし、ネット上でこういう人を見かけたら詐欺ですので、もしかしてホンモノかも?とかは思わないで速やかに立ち去る事をお勧めします。(いやむしろ晒して再起不能にしてあげるのが彼らにとってもいい気がしますが…)

 

・自分が天才だということや、天才と思わせるような様々な(嘘の)エピソードを取り巻きに言わせる。

・自分と取り巻きを”様”付けで呼ばせる。

・その詐欺師が主催する集団のメンバーのネット検索を禁止する。

・自分が執筆した、開発した等言っている事が実はネットからのパクリ。

・文章中に誤字脱字が異常に多く、文章構造、論理性も狂っている。そして、それはわざとである、と豪語する。

・文章の間違いなどを指摘する人に対し、真の意味を分かっていない、バカなのはそっち、ということにする。取り巻きに、それはわざとなんですよ、真の意味が分かればこの人が天才だってことがわかると思います。とか言わせる。(取り巻きもネット上以外で誰もあったことがなく自演説濃厚)

・多くの日本語や外来語などの単語、熟語などを間違って使っている。(取り巻き達も同様に間違えている)

・思想等が異常に幼稚である。

・意見等が、論理的におかしすぎる。

・モラルレベルが異常に低い。

・全く不十分すぎる単直な理由で人を疑い、ほぼ間違いない、かなり怪しいと言う。また、自分には見抜く力があるので間違いないという。

・幼稚園児でもしているような他者への配慮に異常に欠ける。

・自分たちの事しか考えていないことがわかりすぎる(酷い)行為を堂々と行い、だれから見ても正当な行いだと信じている。

・「は?(頭大丈夫?)」というような内容を「納得でしょ?」という語調で言ってくる。おかしいことを強引に通そうとしているというより、本当に納得でしょと思っているらしいことが多い。

・自分は超人格者であり、メディア等で出している悪そうな人格は演技である、本当の自分を知っている人は皆自分の事を大絶賛している。そうである。

・いじめ体質であるが、気に入らない人だけをいじめ、気に入った人にはちやほやするので悪事の隠れ蓑になっている。

・いっていることに一貫性がなさすぎる。でも自分は天才なので間違うわけがないのでこれでいいんですよと強引に通す。

・社会的に地位のある職についているとか、そのような資格、学歴等があると嘘をつく。

・物を売るとき金だけとって物品を何かと理由つけて何年も渡さない。自分は信頼を得ている人物なので文句言う人はいない、ということになっている。

・通常の人の力を超えた漫画並みの超能力を自在に扱える、という。

・取り巻きたちに、自分がどんなに素晴らしい人なのか(嘘、誇張)をことあるごとに語らせ、かかわった人(謙虚な人々)を騙していく。

・自分は非常に重要人物であり、自分に何かあったら世界において莫大な損失になるため、少しでも怪しい人物は疑ったり、その人の利益を多大に害してもよいということになっている。

・言っていることとやっていることが違い過ぎる。自己のモニタリングが全くできていないようだが自覚があるのか、わかっていて強引に通しているのかは謎。しかし持論の論理性のなさなどを考えると自己モニタリング力がない可能性も高い気が…。

・人が何か間違い等を指摘したり改善策等提案すると、取り巻き達が武勇伝など語りこの人にはそのような指摘等は不要(わざとなんですよ)ということを示しその話を終わりにする。そしてそのような指摘等しようという発想をすること自体、そう発想するあなた自身が見当違いなんですよ、的なことを言い、常人では理解の及ばない次元の人物なのだということにしている。

・おかしいことや間違い等について指摘すると、取り巻き達が「はぁ・・・・(呆れ)」という態度で、わからないあなたがバカなのでありこの人には遠く及ばない存在なんですよ、的な空気を醸す。

・どんなに頓珍漢な事も、常人には理解の及ばない崇高な意味があっていっているのだということになっていて、洗脳済みの周りの人も「それが理解できないか・・・ハァ」「わかる人にはわかるんだが、バカにはわからないか(わかっている自分たちはちょっと特別)」などの態度をとるようになる。

・自分たちではない人間の詐欺行為に対し過剰に反応し、攻撃撲滅しようとする。詐欺ではないことまで詐欺だと決めつけ攻撃する。そして武勇伝として語る。

・知識も思考力も全く欠けているのにその道の専門家よりも知識があると豪語。(日本で〇本の指に入る専門家だとか。でも言ってることは小学生以下の思考)

 ・そして「ボクの考えた〇〇論!」を得意げに披露し、取り巻きや洗脳済みの人に「すごいですね!」「目からうろこです!」「天才過ぎる!」などと言わせる。皆専門家ではないし、謙虚な人も多いので、多くの人は(おかしいけど自分が理解できないだけ?)とか(自分が知らないだけ?)と思ってしまう。

 

似たようなことも多くなってしまいすみません、、

まだまだありますが、とりあえずこの辺で一度切ってみます。

 

こういうおかしい人がいても、勝手にやっているのならいいのですが、まず「人を不幸にしすぎ」なのでその人の自由で済むことではなくなってるんですよね…。

まあ騙されるほうもどうかということかもしれませんが、騙されるような心理状態に追いやられたりとか、人間って思いもよらないところで突かれるもんだなと、そんな騙され方をしてしまうんです。

まともな人は皆離れています。洗脳済みで何とも思ってなさそうな人たちは、少しおかしいかなという人が多かったです。または、自分がよく扱われているので居心地がよくて居ついているのかなとしか考えられませんね…。すぐそこで人が不幸に追いやられているのに、平気な顔で加担していたりしました。

 

この詐欺師の被害者がこれ以上増えてほしくないので、ここに公開しました。

 

 

 

 

 

 

変わらなくていい

自己啓発のサイトなどでは何かやたらと自分を変えるということが書かれている。

進学塾だとか何らかのセミナーなどの席でさえ、講師がなぜかいきなり「あなたも自分を変えたいですよね!?」などと言ってくることがあり、それを言われたまじめな人は「自分っていうのは変えなきゃいけないものなのかな?」と思い「自分の中の変えるべきところ」を見つけようとする。

自分を変えろと言われると謙虚な人は、今の自分が十分ではないと思っているので、じゃあ自分の性格を、人と違う部分などをかえるべきなのかなと思い、たとえばおとなしい人などは、声のデカい体育系男子や飲み会で料理取り分け仕切り女子などにならなければならないと思ったりする。

また所属する組織や付き合いのある人間、社会に対し、よくないと思うようなことがあると、自分を変えろ派の人は、「周りに文句があるなら自分を変えろ!」と叫ぶ。

そういう人間だけがうまくやっていけるかのような世の中なので、気の弱い人や謙虚な人は、本来変えるべきような欠点がなくてもかわらなきゃいけないのだと思ったりする。

周りの人から良い扱いをしてもらえないのは自分が悪いからなんだと思い、変わろうとしたりする。

本来の愛されるべきその人のよい気質までも変えなくてはならないのだと思いこまされている人がいる。

犯罪などしてしまう人は、本来のその人の自我が押さえつけられているような場合が多いが、そこまで問題にならずも、本来の自分がダメなのだと思わなくてはいけないと思っているような自信がなく自分を変えなければいけないと思っているような人などは、本来変わる必要はないと言いたい。

周りが自分を認めてくれないのなら、認めてくれるような人のいる環境に、自分を大事にしてくれないのなら、大事にしてくれる人がいる環境に移るほうが良い。

本来の自分、大切にすべき自分を認め必要としてくれる人や環境の中にいるようにすればよいのであり、自分を変えるという乱暴な方法はとらないほうがいい。

 

余談かもしれないが、「周りに文句があるなら自分を変えろ!」と言ってくるような人はの中には、詐欺師や、どんな支離滅裂な事も強引に言い続ければ自分のいう事を聞かせられると思っているような人も混じっていることがある…。

 

自分を変えろと言われるが、周りがオカシイんじゃないのかな…でも誰も文句言ってないし…というようなケースは「本当はバカ」な権力者に周りが洗脳されているということもあり、当事者の方々は注意してほしいと思う…。

 

あとがき

文章が下手ですみません。数年間思想言論の自由が奪われていた環境にいたためだと思うのですが、昔ほど文章がかけなくなってしまいました。。まあもともとそんなにうまくはなかったですけど、、

 

現状への強引な感謝

感謝教と揶揄されたりすることもあるが・・・一部の自己啓発やスピリチュアルの手法ではまず初めに感謝しようということを勧めている。現状に不満があるような人も、常に感謝感謝、全てにありがとうありがとうと思いながら過ごせという方法だ。

 

それが完全に悪いとはいわないが、私は、感謝というのは基本的に自然と心から染み出てくるようなものでいいのではないかと思う。むしろ感謝するという状態になれないから、その人は悩んでいるのではないのだろうか。

無理な感謝、強引な感謝というのは、臭いものにフタ手法であると思う。

 

ポジティブに行こう!とやたらいう人がいるが、自分の中に起こるネガティブな感情をなかったことにすることは、もはやポジティブではない。

また、自分の中のネガティブ要素を敵と見立て、攻撃阻害するようなことも、自分を味方につけることができない手法であり、よい結果にはならない。

 

イソップ寓話にある北風と太陽の、太陽のように、旅人が自らコートを脱ぎたくなるようなことや、唄を忘れたかなりあのように象牙の舟に銀の櫂でもって月夜の海にうかべてあげるようなことでなくてはならない。人が芯から救われるにはメッキではどうしようもない。

 

感謝は与えられてから生じる。自分が与えられていないと思っているところに、自然な感謝は生じない。強引な感謝もただ意味がないだけならよいが、自分の中にある感情に蓋をするようなことであり、それは心の問題をこじらせる。

 

願いは洗練される

今いる環境を一番幸せだと思え、そうすれば不幸だとは思わなくなる。という考えもある。しかし、理不尽な嫌がらせ、いじめを受け職を失い、住む場所もなく食べるものもないような状況なら、それで本当に心から幸せだと思うのはなかなかに難しい。もし衣食住を満たす最低限のお金もないなら、まずはそのお金を得ることを願うことは必要な事だと思う。

 

しかし一方で、もしあなたが裕福ではなくても人並みな生活ができているなら、例えば「引き寄せの法則」などで大金を得ることを願い、実際にそれが叶ったとしても、幸せではないと感じることがある。本当に欲しいものはそれではないという場合がある。

 

幸せということの一つの条件は心が満たされていることではないかと思う。心が満たされていなければ、物欲を満たすことでそれを満たそうとするかもしれない。しかしそれは本当に望んでいるものではなくかりそめのものだ。本当に何を自分が欲しているのか、何が足らないと思っているのか、素直な気持ちになって考えてみることはとても有益だと思う。(PTSDや幼少期にとても辛い経験をした方は注意が必要な場合もある。)

 

不満があるということは心に傷を負っているサインだと考えることができる。そういう自分を責めたり、強引に「ありがとう」などと言ってみるのではなく、傷を癒すことが必要だ。臭いものに蓋、ではいつまでも何も変わらない。