くだらない人間が語る幸せになる方法

くだらない人間が語る幸せになる方法

愛されるべき

どんな人間も愛されるべきで、特に乳幼児期における母親、もしくはそれに代わる人間からの愛情というのは必然のものだ。それは人以外の動物にも言えることだが、人間にとっては特に重要な事だと思う。

誤解している人も多いが、乳幼児期のかかわりというのは、その子の一生にかかわるほどの影響力を持つ。死ぬまでその影響を引きずり苦しむ人間はとても多いのだ。

しかし、だからといって、母親の責任というような問題でもなく、外部の助言に従ってとか、良かれと思ってしたことが裏目に出てしまうことも多い。そもそも子育てというのは完璧を目指すようなことは難しい。親の育児によるあまりよくない影響を、ほんの少しも受けていないという人は少ないのではないだろうか。しかし、そうした影響があまりにその子の人生の足を引っ張っているのなら問題だ。

この問題は自己肯定感の形成とか、愛着の形成、というような発達段階の躓きに起因する。これらは本当に人生を左右する問題となる。

 

愛着障害について知りたい方は、岡田尊司氏の著書「愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)」等を読んでいただけたらよいかと思う。

 

 

幸せになる権利

どんな人や動物も幸せになる権利がある。たとえ犯罪人でもそれは変わらない。もちろん被害者はいちばんに救われなければならない。しかし加害者というものは、多くの場合被害者でもある。彼らの多くは恵まれない生い立ちを持つ人間が多い。仮に人目にはわからないようなこと、例えば、物質的には恵まれていても精神的には満たされないものがあったり、親は愛情を注いでいるつもりでもそれがうまくいっていなかったりということもある。そういう人間には成人しても支えてくれる友人等も得にくい。そのような人間が犯罪を犯す前に救いの手が差し伸べられるべきである。犯罪者を一方的に糾弾しても、また次の同じような不幸な犯罪者が出てくるだけで、当然その被害者も同時に生じる。

それでは、それら犯罪者を不幸に追いやった人間、例えば実の親などが悪いのかというとそうではない。その人間もまた被害者であることが多く、突き詰めていくと、その原因は社会にあるということになる。社会というのは皆が作っているものであり、罪人を糾弾している人たちもその構成員であるともいえる。

これは日本人に多いものなのか、諸外国でも同じようなものなのか分からないが、重犯罪を犯した人間には人権などないも同然といわんばかりのTwitter等での叩きが多く見られるが、人間何か間違えばいつ自分が犯罪者にならないとも限らない。また、何も起こさず過ごせてきたのは当人の努力云々という問題ではなく外的要因によるもの、つまりは恵まれているということなのだと思う。

恵まれてこなかった人間は今からでも恵まれるべきである。どんな人間であれ不幸になっていいとか、不幸がふさわしいというようなことはないと私は思う。